大 阪 府 の 高 校 演 劇 - こ の 1 0 年 (1990−2000年)

中 原 英 三 郎(前大阪府高等学校演劇連盟委員長)

はじめに

 大阪高演の41年目の年、1991年のプログラムにこんなことを書いた。
「日本も世界も、経験や既成の理論ではとらえきれない時代に入っているようです。長い混迷期の始まりか、
新たな飛躍への悩みの時期なのか。若い人々は今の時代から何をつかみだして表現してくれるのでしょう。
鋭い直観力と大胆な表現で衝撃を与えてくれる作品に出会えるのを楽しみにしています。」
 私がこんな感想を書いた背景には、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される東欧「社会主義」圏の崩壊、
異様なバブル経済とその崩壊があった。一方、家庭崩壊も大きな社会問題になっていた。あれから10年。
政治・経済・社会と日本社会全体の混迷期は続き、その出口は依然として見えにくい状態にある、と思う。
トピック風にこの10年間の出来事を挙げてみても、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、金融をはじめとする
大企業経営者のモラル・ハザード、ドメスティック・バイオレンスとキレル青少年による犯罪事件の続発、
一方で進行する戦前型ナショナリズムへの郷愁等々、どれを取ってみても混迷の深まりを感じさせないものはない。
そんな中にあって、大阪の高校演劇がどのように歩んできたかについて、以下にぼくなりに跡づけてみたいと思う。
大阪高演のこの10年は決して、「混迷の10年」でもなければ、「空白の10年」でもなかった。
そのことだけははっきり言える、と確信している。

連盟運営の10年 
(1)会場問題など
  1990年度は連盟40周年の諸企画や近畿大会の開催(箕面市立メイプルホール)で例年以上にあわただしく推移した。
その一方で、次年度の府大会会場がなかなか決まらない状態も続いていた。奥村委員長の尽力と学園側のご好意で、
帝国学園奥田メモリアルホールでの実施が決まったのは91年度に入ってからだった。しかし、授業や入試と
並行しての実施であり、会場スタッフがいないといった事情もあって、常任委員や生徒実行委員の負担は非常に重かった。
何とか大会を終了したときにはホッとしたが、その時は、同時に次年度の会場探しに頭の痛い時期の始まりでもあった。
比較的使用料金の安い自治体所有のホールは予約についての制約条件が大きかった。11月の中下旬に出場校下見・
スタッフ打ち合わせ、仕込み、リハーサル、大会と5日間の会場押さえはとても難しかった。特にこの時期は自治体主催の
文化行事が実施される場合が多く、さらにその日程の決定が議会による予算承認を待たなければならないという事情も
困難に輪を掛けた。せっかく生徒実行委員の活動の活発化などで照明・装置・音響などスタッフ・ワークが向上しつつあった
この時期に、再び条件の悪い学校を会場にせざるを得ない瀬戸際に立たされていた。
  そんな1994年に、よみうり文化センターから、若い人々の舞台創造を援助したいという申し出があった。
ホールスタッフの杉山さん(関東電機=現ハートス)と阪本常任委員との会話から、よみうり文化センターでそのような
論議が行われていることが分かった。早速連盟としてお願いに伺い、夏の「高校生のための演劇講習会」、
10月の「実行委員講習会」、そして11月の府大会と、千里中央駅前という交通至便な場所に立地し、設備面でも
好条件のこのホールを年間活動の拠点として使用できるようになった。第44回大会(1994年度)の時だった。
その間、使用料を連盟財政で支出可能な範囲内で抑えていただき、センター企画行事に優先して大阪府高等学校演劇研究大会と
関連行事の日程を確保して下さるなど、事業本部長鈴木宏氏(現よみうりテレビ事業部)をはじめとするセンター関係者の
ご尽力が、大阪高演の活動の、ある意味では最大の支えになっていることはいくら強調してもし過ぎることはあるまい。
  会場問題では地区大会の会場も毎年の悩みの種だった。公立高校は校舎改築のたびに講堂がなくなり、劇場としての最低条件
さえ満たさない体育館兼用の施設しかない状態が一般化して、私立高校を中心にして会場を確保するしかなくなった。
しかし、他のクラブとの日程調整や併設短大等との関係など、ここでも困難がつきまとった。茨木、枚方、富田林、岸和田各市
のように自治体の施設を借りることのできる場合はまだよかったが、特に大阪・堺市内を中心とした地区にあっては毎年、
会場問題で頭を痛め続けている。こんな所にも文化・教育行政の弱点が表れていると考えざるを得ない。

(2)財政問題など
  連盟加盟費約130万円、プログラム販売収入約50万円、講習会参加費約20万円、合計約200万円の収入で
約350万円の年間活動費を賄う。その不足分を補うのがプログラム広告料と府高芸文連からの補助。
ところが、広告料収入は最も多かった時期の120万円前後から、神戸の震災やバブル崩壊後の続く不況の影響などによって
90万円へと減額し、府高芸文連からの補助も府の財政危機の中で、最も多かった時期から10万円以上減額している。
幸いにして連盟加盟校が130校前後を維持できているので、財政の基礎となる連盟加盟費の減額がさけられ、
よみうり文化ホールの好意で会場使用料が抑えられているので曲がりなりにも運営が成り立っているけれど、ますます
進行する生徒数の減少や景気回復の見通しがないことなどから、財政の困難は今後も続くと考えられる。この10年間、
講習参加費の値上げや、プログラム購入の義務化、府大会参加費の徴収(1校5000円)と、収入増を図ってきたが、
そのような自助努力も限界に近づきつつあると考えざるを得ない。

(3)組織・諸行事など
  1997年度に、地区編成と代表校選出方法の変更が行われた。地区数をそれまでの12地区から10地区に再編成し、
前年度近畿大会出場校(3校)の属する地区は地区シードをして、近畿大会出場校数プラス1校を最優秀校として
府大会に出場するようにした。これは、地区ごとの大会参加校の数が4校〜12校とアンバランスがひどくなったことと、
過去10年以上にわたって特定の学校以外に府大会出場校がない地区(旧B、F地区)が出てきた事による弊害を
解消しようとするものだった。地区大会の会場や審査員を確保しやすくすることも付随的ではあるが狙いだった。
この改変は、大阪の高校演劇の多様な達成を府大会に集約する点で成功だった。ちなみに48回大会(1998年度)
では同じ地区から府大会に出場した長尾・枚方両校が、49回大会(1999年度)では磯島・長尾両校が
近畿大会に出場して高く評価されるという具体的成果をもたらした。この改革に合わせて表彰規定も以前の
最優秀・優秀・優良・努力という4段階から、地区大会では最優秀(府大会出場)、優秀の2賞に、府大会では
最優秀賞(=近畿大会出場)だけに(その他のすべての出場校は優秀賞)という変更を行った。連盟の最大の行事は
秋の府大会であり、大阪府高等学校芸術文化連盟主催の府芸文祭はいわば年間活動をしめくくる行事である。
とはいえ、府芸文祭の開催される2月が、各校の卒業公演や合同公演、プラネット演劇祭の準備の時期であることも
あって、連盟をあげての行事にはなりにくかった。演劇連盟では、終始、府大会を芸文祭の演劇部門として
位置づけてくれるよう芸文連理事会で要望し続けたのだったが、受け入れられるところとはならなかった。
各部門のまとまった行事でなければ府からの財政援助の得にくいことや、独自活動の困難な部門にあっては
府芸文祭の看板なしには全府的な行事がしにくいという事情もあって、演劇連盟の提案は受け入れられそうもないので、
連盟としては芸文祭を、大きなホールでの上演機会をすこしでも多くの演劇部に提供する場として位置づけて、
従来の府大会優良・努力賞受賞校の出演から上演校の公募に切り替え、合同公演も応募対象にすることにした。
97年度のことだった。しかし、観客動員など問題点は多い。
 この10年の最大の行事は98年度、99年度と引き続いた近畿大会の開催だった。両年度とも箕面市立メイプルホールで
開催された。特に98年度は近畿高等学校総合文化祭の演劇部門として開催され、事務局担当の土谷典子連盟事務局長(長尾高校)の
負担は非常に大きいものがあった。我々から見ると滑稽なこともあった。夜遅くまで準備に当たる生徒実行委員に、せめて
おにぎりくらい出してほしいとの要望に対して、総合文化祭実行委員会事務局は、食糧費が問題になっている時節柄、不可能だ
という回答があった。生徒はあくまでボランティアなのでスタッフジャンパー以外はいっさい提供できないというのだ。
その一方で、生徒の手作りによる総合文化祭というのが、今大会のコンセプトだと言う。思わず、それではボランティアでは
なくて「勤労奉仕」じゃないか、と言ってしまった。官官接待と、手弁当・交通費自前で大会運営に協力する生徒達に
対するささやかなおにぎりを「食糧費」だから同じだという論理にはあきれてしまった。
ともあれ、大会は三日間をとおして満席状態が続き、実行委員会生徒と観客が一体になっての大合唱で閉会した。
最優秀校には、この大会で一番苦労された土谷先生が顧問をする長尾高校の『父と暮せば』が選ばれた。
終わりよければ全て良し、と言うべきか。
  99年度の近畿大会は独自大会だった。前年度の反省もあって、きめこまやかに出場校の要望を吸い上げることに最も配慮した。
大会直前まで出場校とホールスタッフとのパイプ役をした古川智子常任委員(箕面東高校)の労苦は特に大きかった。この年、
近畿高等学校演劇協議会事務局から、今回の大会を近畿方式確立の出発点にしたいとの提起があり、大阪でもそのことを念頭に
置いて運営に当たったが、ホールの条件の違いと各府県の方式の違いを調整して統一的な「近畿方式」を確立することの難しさが、
むしろ浮き彫りになったように思う。
  この間会長を勤めて下さった先生方のご苦労にも感謝している。演劇連盟では会長は名誉職ではなく、行政との関係は
もちろん、諸々のトラブルの処理など、会長ならではの役割を多く果たしていただいた。箕面市教委に足を運んで
箕面市教委に近畿大会の共催団体に加わっていただいたこと、東住吉高校の照明設備事故に際して学校側との折衝に
当たっていただいたこと、近畿総合文化祭の開会部門(第2部)を担当した大橋睦夫(勝山高校)、福井真里子(当時工芸高校)
両先生をバックアップしていただいたことなど、思い出すことは多い。
  この間、久能正博(前都島工業高校)、内田孝雄(前清友高校)、三富隆太郎(前清友高校)の各先生の訃報に
接しなければならなかった。長年にわたって深い愛情をもって演劇連盟の活動に関わって下さった先生方のご逝去は、
天寿を全う、というにはあまりに早すぎた死だっただけに、余計胸詰まる思いを抱かざるを得なかった。
謹んでご冥福を祈りたい。

大阪の高校演劇の10年
(1)活動を牽引する顧問創作
  記憶を辿りながら、私なりにこの10年を回想しようと思う。
  40周年の年(1990年)は近畿大会開催の年でもあった。その翌年の41回大会(1991年度)のプログラムを見ると、
生徒創作が5校、既成作品と脚色が4校、顧問創作が3校だった。その中に阪本龍夫作『星よ、降れ』の追手門学院高校、
山本篤作『Dramatic Passion』の金蘭会高校がエントリーされている。この2校はその後現在に至るまで毎年府大会に
出場し、大阪の高校演劇の牽引車としての役割を果たし続けている。芝居づくりの巧みさとヒューマンな視点で
観客の支持を集めている追手門学院、既成観念の欺瞞をつき現代の病根をえぐり出すパッション溢れる演技で観客に
衝撃を与えている金蘭会。高い水準を保ち続ける両校の活動は敬服に値する。それ故に両校は近畿大会では、ややもすれば
厳しい批判にさらされがちでもあった。曰く、「内容を詰め込みすぎだ」、「テンションが高すぎて疲れる」、
「去年に比べて云々」等々。どの学校もそうであるが、毎年変化する生徒とともにクラブづくりから始めて一から
芝居づくりをし、少しでも生徒が舞台で生き生きできるように、少しでも生徒の問題意識を採り入れてそれを
深めようと苦闘している顧問にとっては酷な批評も多かったけれど、それも批判意欲をわかせるだけの水準を
保ち続けていた事へのいわば代償とも言うことができよう。両校以外でも顧問の創作による優れた作品は多かった。
  吉田美彦(牧野→枚方)、大橋睦夫(清友→勝山)、安平ひとみ(住吉商業→工芸)、西本邦子(帝塚山)、中村剛(大阪成蹊女子)、
玉井清文(前初芝)の各先生など以前からの顧問の他、この10年間では、山内貴子(住吉→茨木東)松山正民(鶴見商業)、
藤田雅彦(伯太)、島原直子(追手門学院大手前)の各先生などが生徒とともに創作活動を続けている。彼らの活動は生徒達に
大きな刺激になっている。とは言え、近年学校現場での仕事が異常に増え、しかも教員の新規採用がほとんどないため顧問の
年齢層も上がる中にあって、創作活動をする顧問の新たな広がりはあまりない。それだけに、生徒と自らの感性と論理の
接点を見出して、生徒の中で書き続けている顧問はすごいと思う。一方で、生徒への迎合でもなく顧問の押しつけでもない
生徒と共に行う創造活動の難しさをも、ぼくは近年特に痛感している。

(2)忘れられない作品 
  毎年府大会で上演される作品をきちんと見ているわけではない。それでも、印象に残る年とそうでもない年がある。
今も忘れれられない作品もある。41回大会(1991年度)の『それでも僕等は〜電話症候群〜』(住吉)、
42回大会(1992年度)の『シャウト〜僕が僕であるために〜』(追手門学院)、45回大会(1995年度)の
『風のように夢のようにーForever ケイー』(金蘭会)はそこには確かに現実があるという深い印象を与えて衝撃力があった。
電話線を通してしか自己表現ができない高校生(住吉)、自傷行為によって辛うじて自分のプライドを守ろうとする高校生
(追手門学院)の姿に確かな存在感があっただけでなく、喘ぎながらも、日々の営みを通してつらい現実を乗り越えて
生き抜こうとする両校演劇部の姿勢が鮮烈だった。金蘭会の作品は大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件の年に、
それらによって露呈した1995年の日本の底流を根源から見据えようとする志の高さが舞台から感得された。しかし、
これらの作品は必ずしも正当に評価されなかったように思う。軽薄短小がトレンドになっている時代にあって、生徒たちと
徹底的に議論しながら、自分たちの現実を深く見据えて舞台で表現する事自体が、近畿大会あたりでは「しんどい」、「重い」、
「詰め込みすぎ」といった言葉で切り捨てられたりした。そのような感想を聞くたびに、ぼくは、
「見終わったら深く考え込んでしまうような芝居のどこが悪いんだ。快くってさわやかなのばかりを求めるのは
感性の退廃じゃないか。」などとひそかに呟いたものだった。『シャウト』はそれでも近畿大会で最優秀作品に
選ばれて、浦和での全国大会(1993年)に出場する事ができた。ぼくはこの時、近畿大会で審査員の一員だったのだが、
専門家審査員の一人が、「おれは強いんだ」と叫びながら自らの腕を傷つける主人公の演技について「あれはなぜあんなことを
してるんですか」と問いかけたことが忘れられない。すでに自傷行為が学校では問題になってる時期だっただけに、
作品のキイになる行為の意味について「専門家」の理解が得られなかったことに驚かされた。
その一方で、教師と生徒には分かりきったことであっても一般の人々にとっては理解不能の場合があることを思い知らされた。
全国大会では、最初の大阪弁でのセリフで客席に笑いが起こったのがショックだった。どうも首都圏では、大阪弁=お笑い、
という条件反射的なものがあるようだ。それでも、舞台の展開に従って観客は作品世界にどんどん引き込まれて行った。
  大阪の作品が久しぶりで全国大会(1999年)に出場したのが48回大会(1998年度)で上演された『父と暮せば』
(長尾)だった。井上ひさし氏によるこの作品を、長尾の諸君はとてもきちんと深く読み込み、見事に形象化してくれた。
府大会でも近畿大会でも、珍しく審査員全員の一致で最優秀になった。近畿大会で審査員の扇田昭彦氏は「決してうまくはないが、
こまつ座による上演に劣らない感動を与えた」と評した。山形での全国大会については、木村津男会長(当時)の文を紹介しておこう。
 長尾高校の劇が終了すると、観劇者が一瞬、虚脱感に陥ったような静寂状態になった。しばらくして、観劇者が
立ち上がって大きな拍手を続けた。(作者の)井上氏は後のインタビューで「長尾高校の演劇に対して、いくら拍手しても
足りないと思う」と語り、会場を後にした。この言葉が長尾高校の演劇部に対する最高の贈り物であると強く思った。
この大会での審査員は、どうも既成作品には点数が辛かったようで優秀校には選ばれなかったけれど、そんなことは
どうでもいいと思わせるだけの舞台成果をあげたと言えよう。

(3)忘れられない大会
10年間を振り返って、いくつかの印象に残っている大会がある。特におもしろかった大会と言い換えてもいいだろう。
42回大会(1992年度)では、『シャウト』の他にも、顧問作では『ハイスクール レボリューション』(金蘭会=山本篤作))、
『となりのトコロ』(清友=大橋むつお作)があったし、既成作品では別役実作の『トイレはこちら』(金光第一)が上演された。
生徒創作では『OZ ブリキの章 IMITATION VOLTAGE』(初芝高校演劇部作・織田拓巳脚色))が小劇場演劇のカッコよさと
ノリで観客生徒の広い共感を得た。『LIBERTY〜ぼくらの七日間戦争』(大阪信愛女学院演劇部脚色)は、日頃の教師=
学校や親に対する彼女らの思いのたけをこれでもかこれでもかというくらい舞台上でぶっつけて、高校生が演劇を創造する意欲の
原点のひとつを見せられた気がして、印象深かった。
 この時期からそれまで以上に上演作品のスタイルの多様化がすすみ、審査が非常に難しくなったように思う。
演劇において審査は可能か、とは永遠の命題とも言えようが、さまざまな傾向の作品をどうやって公正に審査するか、
ということで審査員は頭を悩ませ続けた。特に傑出した作品がある場合はいいのだが、必ずしもそうではない時には、
審査員はみんな困ってしまった。審査会はどんどん長時間になり、審査基準は年によって揺れつづけたように思う。
最優秀・優秀・優良・努力という四つの賞を出すという長く続いた方式を、近畿大会出場校を最優秀に、その他の学校を優秀に、
という方式に変えた背景にはそんな事情もあった。
  48回大会(1998年度)もおもしろかった。『父と暮せば』(長尾)という優れた作品が生み出されたことも
さることながら、生徒創作が新たな段階を迎えたという新鮮な感銘を受けたのがこの年だった。
この作品で99年度のテアトロ新人戯曲賞を最年少で受賞する事になる久米一晃作の『リンゴトナイフ』(枚方)は、
様式化した演技・演出で崩壊した家庭の姿を形象化して、幕が降りてからも家族とは、家庭における個人とは、
と深い思念に誘い込んだ。『BAD is koGAL~Graduater~』(八尾北=朝村愛春作)はマスメディアを通しての風俗と
してばかり語られるいわゆるコギャルと、コギャルになれない(ならない)高校生の姿を描いてその関係性の
表現が新鮮だった。『Shine』(堺東=澤森晴世作)は19世紀ロンドンの孤児達の群れに貴族の少年が紛れ込み
両者のふれあいを通してそれぞれに自己発見をするというメルヘン的な世界をさわやかに表現した。生徒創作がいわゆる
学園物や小劇場演劇のイミテーションではない多様な展開を始めていることを印象づける年だったといえよう。
  この傾向は49回大会(1999年度)も続いた。近畿大会出場校の中で2校が生徒創作というのは多分初めてのことだ。
『途中経過中中過程』(長尾=小倉清美・高嶋好美作)は夢と現実、生と死がメビウスの輪のように連なった世界を形象化した。
『少女が来たりて窓、叩く』(磯島=上山光代作)は恋する少女のひたむき過ぎてハチャメチャな行動をかろやかに描きながら、
恋するってほんとはどんなことなのか、恋することで人はどう変わるかを見せてくれた。どちらも近畿大会でも好評だった。
近畿大会には出場できなかったが、『れじすたんす(仮)』(寝屋川=内田信也作)は後半で反戦のメッセージが生の形で
出てくる弱点を含みながらも、さびしがりやでもろい現代人(あるいは現代の若者)が、それゆえに大きな力によって
マイルドコントロールされる危険性をはらんでいることを、笑いと快適なテンポで表現した。
  50回大会(2000年度)では、近畿大会で最優秀を得た『私場所 ワタクシバショ』(岡村寛子作)の大谷高校、
同じく近畿大会で創作脚本賞を得た『正直カメラと日記爆弾』(益山貴司作)の工芸高校、もう一校近畿大会に出場した
『ジュン』(大名光全作)の堺東高校と、府大会最優秀賞の3校はいずれも生徒自身による創作台本だった。
48回大会(1998年度)以降の傾向が、非常にはっきりした形であらわれたのがこの大会だったといえよう。

大阪高演51年目のために〜ぼくの思い〜   
  地区大会も含めて生徒たちは、見せる技術がうまくなり、全体としての水準も高くなった。かつてのように暗転、暗転の連続で
流れがこま切れになってしまうような作品もかなり減った。スペース・ゼロを初めとする会場で7月下旬に開催されるHPFや、
3月下旬に開催されるプラネット演劇祭など上演の場が増えたことも、そのことにあずかって力があった、と思う。しかし、
彼らの演劇体験や読書も含めての経験の狭さや思索の浅さから、ややもすれば類型的な表現になったり、ひとりよがりに
なったりする場合も多い。そんな時彼らの感性と意欲に寄り添いながら弱点を厳しく指摘し、アドヴァイスする顧問の役割は
非常に大きい。その意味で、2000年度は中断しているけれど、98、99年度に吉田先生を中心にして行われた
「高校生のための創作講座」のような試みは大阪の高校演劇の発展のために、今後多様な展開が求められている、と思う。
一日だけの演劇講習会と共に、例えば創作合宿講習のような企画が今求められているのではなかろうか。
生徒創作作品だけでなく、優れた既成作品に真っ向から取り組んだ作品、教師である顧問が自らの主題を生徒にぶっつけて
生徒の論理や感性をゆさぶりながら作られた作品、顧問と生徒が共に議論を闘わせながら作り上げられた作品、それぞれに
おいて飛躍的にとまでは言わぬにしても大阪の高校演劇には新しい発展の兆しが見え始めているように思う。
しかし残された課題も多い。先に述べた財政上の問題もさることながら、生徒数減少の中で、部員数の減少によって
クラブ活動を成り立たせること自体が困難になっている学校も多く、そのことが連盟加盟校数に比べてコンクール出場校が
少ないという現象になって表れている。このことは今後益々深刻な問題になることが予想される。学校という場での
演劇活動の果たす教育的・社会的役割が大きくなっている時代であると考えるだけに、まだ活発な活動が行われている
今のうちに、高校での演劇活動をどうやっていっそう活性化させるかについて、広く知恵を出し合うことが求められている。
その営みは顧問教師だけでなく、演劇活動と自らの生き方を重ね合わせている生徒たちとの共同の作業として
行われる必要がある。大阪府高等学校演劇連盟の活動が半世紀を越える今こそ、そのスタートが切られなければならないと、
ぼくは今強く感じている。
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